写真に対する僕なりの考え
カメラをはじめる前の僕なりの考えは、「写真=記録物」といった認識だった。
目の前に美しい景色が広がっていれば記念に撮影をして、今まで見たこともない場面に遭遇するとすかさず写真を撮っていた。もうこの先一生同じ景色は見られない、そういった思いから記録物として残していた。
家族写真でもそうですが、人生の記念として生きた証を先々で残したくて、それが写真の役割なんじゃないかと思っていた。SNSも然り。人生の一部分を誰かと共有したくてやっているようなものだと思う。写真とは見たもの感じたもの、字の如く真実を写し出している、その考えがすべてだった。
旅行雑誌に掲載されている旅館の写真が実物と印象が異なっているというのは僕の人生で何度も耳にした。経験もしたことがある。
そのことを聞くたびに、そういった写真は悪者というような扱いをしていた。真実を写すのではなく、実物よりもよく見せようとして一種の詐欺と思うことも多々あった。
そういった考えから派生して、レタッチ(写真や画像データの編集)されたものはすべて写真としては認められなかった。現実を忠実に再現されているものに、どうしてわざわざ手を加える必要があるのかまったく理解できなかった。しちゃいけないだろう、とさえ思っていた。
カメラをはじめてからもその考えは変わることはなかった。だけど最近になって、写真に対する自分なりの考えに変化があることに気づいた。それは行動にも表れていた。
フィルムをはじめた頃、ものすごく感動したことを覚えている。あの色味、あのざらつき、大きな写真にしなければなんら変わらない解像度。
何気ない日常でさえもフィルムで撮ってしまうと特別な日常に変わることがわかった。そこからフィルムの魅力にどんどんハマり込んでしまった。
表現力を意識し出したのはこの頃。
「どうやったらメッセージ性の高い写真を撮ることができるか?」
写真を撮っているとき以外でも、常日頃からそのことばかりを考えていた。フィルムはよりノスタルジックに、デジタルはよりエモーショナルに。
うまくいかないことばかりでしたが、はっきりとした答えが僕のなかでわかるかもしれないと思い、とにかくテーマを意識して写真を撮り続けた。撮ったものはSNSへ投稿し、フィルムはInstagramへ、デジタルはTwitterへ投稿をするようになった。使い分けているのにはいちを明確な理由がある。
フィルムは記録物として、デジタルは作品としての位置づけになっている。
僕からすれば盲点ではありましたが、Twitterにも写真家の素敵な作品が数多く投稿されているのを知った。しかもそのほとんどが写真にレタッチを施したもので、僕も同じように表現してみたいと思い、いつしか憧れるようになっていた。そこからレタッチすることの魅力にどっぷりハマってしまった。
今まで悪としていたいたことが、そうじゃないんだと世界観が広がり、レタッチも表現力のひとつとして捉えられるようになった。レタッチひとつで見違えるような写真に仕上がる。そう、驚くほど。
表現力を磨きたいと思っているすべての人に必須のスキルだと思う。
今はデジタルカメラを使用する頻度が多く、写真を撮ったあとはレタッチしたものをTwitterへ投稿をしている。まだまだ納得のいく色味とやらを出せていませんが、そこはどんどんレタッチの技術力を高めていきながら探し出していきたい。
自分の色を見つけるまでもうちょっとこの旅は続いていく……かな。